自分のキャリアストーリー

【4話完結】人材紹介と私/第1話:人材紹介との出会い

私のキャリアが総合商社の商社マンからスタートし、国内外の起業経験や外資勤務を経て大学教員に至るまでのこと、過去に「自分のキャリアストーリー」として本ブログに書いています。

人材コンサルタントになる前の話:パート1 商社マン
人材コンサルタントになる前の話:パート2 海外起業

人材コンサルタントになった後の話:パート1 外資勤務
人材コンサルタントになった後の話:パート2 国内起業
人材コンサルタントになった後の話:パート3 著述活動

よって、今回の4話シリーズのコラムは、私のキャリアストーリーの流れを追うのではなく、「人材紹介と私」と題して、人材紹介の仕事をする中で、自分は何を学び、何を考え、どう変わっていったのか、その点にフォーカスして書いてみたいと思います。4話の各概要は、こちらの投稿記事にまとめて紹介しています。

前置きが長くなりましたが、第1話は「人材紹介との出会い」について書きます。

私は2001年1月に帰国しました。1995年4月からマレーシアに渡航し、海外起業に挑戦し、企業の採用支援事業や語学教育事業に取り組みましたが、帰国を決断した際、再出発をするのは日本企業ではなく、若くても裁量が多く、実力主義の色合いが濃いイメージのあった外資勤務に挑戦したいと考えていました。求職活動の際はいくつかの外資転職に強そうな人材紹介会社に絞って周り、情報収集と同時に転職支援を依頼しました。

小さい事業だったとはいえ、自らが代表として会社を切り盛りしていた30代前半の自分は、外資勤務をする際も、小さくてもいいからリーダーシップをとれる仕事を求めていました。経験と実績があったのは採用支援事業と語学教育事業だったことから、紹介を受けた転職先候補の多くは、外資や日系の留学支援会社や語学教育会社が中心であり、中には30代前半の私に社長職への応募を提案してくれた人材紹介会社もありました。そうした中で、一人の老獪な米国人ヘッドハンターとの出会いがありました。

「外資勤務で高給サラリーマンを目指すのもいいが、君はヘッドハンターになってみないか」

ミイラ取りがミイラになるという言葉(説得しようと思って訪れたら、かえって相手と同じ意見になること)がありますが、少し意味は違えど、ようは私はヘッドハンターに転職支援をしてもらおうと思ってアプローチしたのに、ヘッドハンターの仕事そのものが、自分の過去と未来をつなげる仕事であると納得してしまい、この誘いに乗ってしまったのです。

結果として、今となって思えば、この判断は自分にとって正解だったと思いますが、いろいろ苦労を抱え込むことになった決断でもありました。

その米国人ヘッドハンターの仕事を手伝う形で1年ほどヘッドハンティングの修業を積んだ後、米国資本のヘッドハンティング会社の消費財チームの立ち上げとマネジメントを任され、数名の外国人と日本人のヘッドハンターを部下に持ちました。売り上げを伸ばし、商圏を広げ、新規の採用を繰り返し、事業は成長します。そのうち、製造業チームの立ち上げを任され、チームは拡大しました。業界を超えて、人事・総務の管理職の求人を担当するチームを引き継ぎ、3つのチームをマネジメントする私のグループは、社内でも一大勢力になりました。売り上げが伸び、少しずつ良い人材を仲間に加えることができたおかげでいいことがたくさんありましたが、在籍していた間には苦労も絶えず、ストレスの多い日々でした。上司だった外国人社長が、毎年入れ替わる環境であり、大資本への事業売却もあったせいか、日本支社の社長解任が毎年起きるなど、不安定な中で過ごしていた日々でした。

とはいえ、自分自身と周りのチームメンバーの売り上げは伸び続け、業績は絶好調ですから、顧客数は広がり、求職者のネットワークも大きく広がりました。この時の経験が、後の国内起業への決断に繋がりました。

私は消費財業界の主にセールス&マーケティングの管理職求人に取り組んだ後、自動車関連業界のエンジニアリングの管理職求人に注力していたので、業界事情に詳しくなったことや業界に多くの顧客と求職者のネットワークができたこと、その方々との信頼関係があったこと、そして業界知識、商品知識などを得られたことが日々のやりがいでした。もちろん売り上げが目標を超えて、自分の収入が大きく増えた時は、結果さえ出せば評価されることが明白であり、ビジネスの面白さを実感しました。企業の採用支援はエージェント業(仲介業)であり、商社マンの仕事との共通点もありました。自分には向いている仕事だと、比較的早い段階から実感していました。

外資のコンサルタント兼マネジャーの仕事は、チームと自分自身の売り上げを自らの計画に沿ってつくりあげていきますので、その点は海外起業で繰り返していた営業活動や会社経営に通じるところがありました。20代半ばから30代前半にかけて、海外起業で経験したことが、その後の30代から40代にかけて、外資勤務で採用支援の仕事につながったこと、そしてこの間に自己完結できる仕事を覚え、人脈を広げ、そして何よりも人生最大の稼ぎを得られた時期であったことは、いま私が挑戦している自分の人生後半の大学教員としてのキャリアを考えた時、必要不可欠なミドルキャリアの時期だったと振り返っています。

人材紹介の仕事自体は、常に自転車操業のごとく不安定な面もあり、ストレスもあったのですが、私がしっかりとマスターできた仕事であり、時間の自由もあり、人脈も広がり、大きく稼ぐチャンスもあったという点で、長く取り組みたい仕事だと思っていました。

しかし人生とは不思議なもので、時代は2008年のリーマンショックの時期を迎えます。もともと外国人社長が1年と持たない職場環境が7,8年続いていたので、私自身、上司には恵まれず、その点では苦労しました。7年で7人の外国人社長に仕えたのですから、その苦労は想像できると思います。

外資系企業で幹部であった数少ない日本人管理職の自分が、業績が絶好調の中で、政治的な理由やその他の事情で会社を辞める状況になることは時間の問題でもあったのかもしれません。とはいえ、当時の記憶は今ではさすがにもう薄くなり、はるか昔の話になってしまいました。いろいろ悔しい思いもあったかもしれませんが、どんなことでも乗り越えられるものであり、その後、自分のキャリアが新たな展開を迎えていったことを考えれば、起きるべくして起きた人生の転機だったのでしょう。後になってみれば、もしその外資系企業に残っていたとしても、約半年先にはリーマンショックの影響で日本市場から撤退してしまいましたので、いろいろ潮時を迎えていたということだろうと、当時のことは整理しています。

北京五輪の夏、2008年8月、私の外資勤務は終わりました。業界に長かったことや、売り上げが高く顧客を多く持っていたことから、幸いにも同業他社からの誘いを積極的に頂きました。ただ、過去に海外起業を経験して、自営で働くことの魅力を知っていた私にとって「外国人社長の存在に振り回される外資系企業からはもう卒業しよう」との判断は早く、退社の翌月、2008年9月には二度目の起業を国内で踏み切ったのです。

運良く、私は人材紹介の仕事をとても楽しみました。この仕事のおかげで日本への帰国後、充実した30代・40代を過ごすことができました。人材紹介の仕事との出会いは私にとって運命的でした。この時期に良い友人(顧客や同僚など)もたくさんできました。

さて第2話は、「免許皆伝への道のり」と題しまして、人材紹介の仕事で一人前の結果が出せるようになるまで、どのような道のりであったか、コツをつかんだきっかけや失敗したことについて書いてみます。この仕事でやっていけると思ったのは、どのタイミングであったか、いわゆる「自分は免許皆伝した」と実感できた時の思いを率直に書きますので、よろしければ次回もお読みいただければ嬉しく思います。