自分のキャリアストーリー

人材コンサルタントになった後の話 【パート3:著述活動】

2001年1月、久しぶりにアジアから帰国した私は、人材紹介の外資系企業(東京)でキャリアをスタートしました。米国人やアジア人が職場におり、直近の6年間を海外で生活していた自分にとっては働きやすい職場でした。

アジアでは求人情報誌を発行する仕事をしていたため、人材紹介の仕事をしながらも、今度は日本で何らかの著述活動をしたいと思っていました。そのチャンスは意外と早く訪れたのです。2001年、新しい求人情報誌が発行となり、私はその雑誌の取材を受けたことをきっかけに、その後同誌に連載コラムを持つことになりました。

また、取材に来たフリーランスのライターさんと仲良くなり、その後、別の媒体での取材にも応じるようになりました。その中には読売ウィークリー(読売新聞系の雑誌で、朝日新聞のAERAに対抗して当時発行されていたもの)のような、もう今では廃刊になってしまったような雑誌もありました。

取材を受け始めると面白い現象が起き始めました。求人情報誌のような業界誌(今、その大半はネットメディアにとって代わりましたが、当時は電話帳のようなぶ厚い本でした)、次はビジネス系の週刊誌(AERA、読売ウィークリー、プレジデント等)、その後、自己啓発系の週刊誌や月刊誌(ビッグトゥモロー、月刊THE21等)、専門誌(月刊総務、)一般週刊誌(週刊SPA!等)、専門紙(ジャパンタイムズ等)、一般紙(日経新聞、朝日新聞等)、日刊紙(日刊ゲンダイ、夕刊フジ等)というように、取材を受ける媒体が広がっていきました。

2001年からの10年間、私は外資系ヘッドハンターとして、多くの取材を受けることになりました。取材自体は楽しい企画が多く、また勉強になるものが多かったと思います。相手をレスペクトすること、嫌われないこと、そして期待以上のサービスを提供すること、あいまいで回りくどい話ではなく、常に歯切れよく言い切ることなどを心掛けて、編集者やライターさんとの仕事を楽しみました。

その結果、比較的早い段階で、人生初めての著書を書く機会に恵まれました。2002年5月、「外資系で結果が出せる ストリート・ワイズなヤツになれ!!外資系ヘッドハンター流社長が欲しがる人材になる方法」(総合法令)を上梓しました。

その後、ビジネスマンの自己啓発になるテーマを選び、著述活動を始めました。主なテーマはキャリア、転職、時間術、コミュニケーションなどで、いろいろ挑戦しました。(著書リスト)

2009年、人材紹介の実務とノウハウをまとめた「人材紹介の仕事がよくわかる本」(日本実業出版)が完成しました。この本は息長く読んでいただいています。

これは最新情報ですが、この夏、久しぶりに本の執筆に取組んでおり、2019年10月末に発売予定の本があります。「エンジニア 55歳からの定年準備~定年延長・再就職・フリーランス・起業の選択ガイド」(日本能率協会マネジメントセンター)

こうした創作活動に取り組んだおかげで、日々の人材紹介の仕事も楽しく取り組むことができました。継続的に高い売り上げを出すためには、いろいろなプレッシャーがありましたが、著述活動のおかげで私の存在を知り、キャリアの相談をしてくる人も少しずつ増えました。私にとって著述活動は本業にとても役立ちましたため、長く続いたのだと思います。

10年かけて書き続けた著書のおかげで、その後、2012年からは大学教員になることになりました。そのとき以来、早いもので大学教員として10年が経とうとしています。グローバル企業の採用支援から転じて、私はグローバルに活躍する若手人材を育て、大学の国際化の歩みを進める仕事へと、その活動の場を広げていくことになったのです。

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